100人のライフワーク

ライフワーク──概念的墓碑銘としての

100人のライフワーク林鉄平
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執筆者情報

林鉄平/講師・研究職
カルガリー大学大学院哲学科博士課程修了。博士(哲学)。専門は数学の哲学および数学史。「1+1=2」にかんする本を執筆中。
Twitter: @t_hayashi

「ライフワーク」というとふつう、「生涯をかけて──あるいは、生涯のある時点以降のそれなりにながい時間をかけて──精力を傾注してなす仕事」としてうけとられる。たとえば、シュヴァルの理想宮やヘンリー・ダーガーの『非現実の王国で』は、たとえそれらが彼らの生がつきる(畢生!)前に完成したものであっても、そうした「ライフワーク」の一例とかんがえられるだろう。

これらシュヴァルやダーガーの例に顕著なように、ライフワークの裏にはある強迫的な執念があり、ライフワークそれ自体はおうおうにして「大作」と形容されるようなものであることがおおい。では、何についてであれそもそも「強迫的な執念」などというものはなく、「大作」に手をつけようといった大それたかんがえもまったくもたぬような「その他大勢」たるぼくは、ライフワークにかんして何がいえるだろう? そして、何がのこせるだろう? ここで、「ライフワーク」という言葉がさししめす可能性についてかんがえてみたい。

まず、強迫的な執念はなくていい。だらだらと、気づいたときにちょっと気合をいれるという程度でもいいし、何だったら「ライフワークにたずさわっている」という意識すらなくたってかまわない。また、「ライフワーク」として最終的にのこるものが大作である必要もない。結果として「ライフワーク」としてあらわれるものが、「それ」としてさしだされたとき「え、どこ?」とみるものをいぶかしくおもわせるものであっても、ぜんぜんいい。そうかんがえたとき、「ライフワーク」として何がみえてくるか。

「ワーク」という言葉は、おおくの場合「仕事」を意味するものとしてうけとられる。もちろん、「ライフワーク」にあらわれる「ワーク」にしたってそうだ。「生涯をかけてなす仕事」──はじめにいったとおり、それが「ライフワーク」という言葉の一般的うけとりだろう。しかし、これもまた一般的な「ライフワーク」の事例に顕著なように、「ライフワーク」という「仕事」の成果物は「作品」と名ざされるものであることが、とてもおおい(シュヴァルの理想宮しかり、ダーガーの『非現実の王国で』しかり)。

そうであるのなら、「ライフワーク」という言葉を「人生という作品」と解釈しても、それほどの無理はないだろう。そこでは、「生きること」がそのまま「作品制作」という「仕事」になる。そして、生きるのにべつだん強迫的な執念はいらないのだから、「人生という作品」をつくるにあたっても執念は必要とはならない。ただ、だらだらと生きているだけでもいい。どう生きたってそれは人生であり、その結果できあがったものもやはり作品だ。

また、「作品」というものがそもそもそうであるように、その人生がどんなにつつましいものであっても、そのことはそれが「作品」であることをさまたげない。さらに、その人生が人からどうおもわれようが、それは人生であり、作品だ(駄作だって作品であることにかわりはない)。だから、たとえある人生がおおくの人に「とるにたらない、つまらない人生」とおもわれても、それもまた人生であり、そして作品である。

「人生という作品」をのこすためには、ただ「生きた」という事実があればいい。さらに、それが誰かの心にちいさな痕跡をのこせれば、生きた甲斐がある、つまり、作家冥利につきるというものだ(最終的にそうした痕跡それ自体はちりぢりに消えさってしまうにしても。とおい未来には、シュヴァルの理想宮はくちはて、ダーガーの『非現実の王国で』のページも塵となっていることだろう)。

そして、作品の受け手として、ふれる作品がなるべくおもしろいものであってほしいとねがうのは自然なことだ。それは、死ぬまぎわにせっする「人生総体」という自分の作品の場合であっても事情はかわらない。そのようにかんがえると、「ちょっと生きることをがんばってみようかな」とおもえてきもし、さらには「どうせだったら人の心にのこることを目ざそうかな」という色気もでてくる(人生を「作品」とみることは、ひじょうにセラピューティックないとなみでもあるのだ)。

「人生」という作品をよりよいものにするため、がんばって生き、そして第三者がそれをふりかえっても「おもしろい」とおもってもらえるよう、あえてその人生に波風をたたせるのもいいだろう。あるいは、人生を「作品」などとはまったくかんがえず平々凡々におくられた人生においては、「凪のなかにふとたつさざ波」とでもいったものの妙味がきわだつかもしれない。それもこれも、「人生」の製作者しだいだ。

それでは、その作品がとじられるとき、つまりは死のまぎわ、ぼくはぼくの人生=作品をどううけとめるのだろう。「なかなかいいじゃないか」とおもうだろうか。それとも、「やっぱり駄作だった」とおもうだろうか。なるべくだったら「なかなかいいじゃないか」とおもいながら死にたい。